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日系アメリカ人(Japanese American)



Last update: January 9th, 2006.

九州福岡に住んでいる私の祖父がアメリカ国籍を持っていたことを、きちんと認識したのは、1997年頃、私が大学4年の頃でした。祖父が、ある日、大切に保管してあった書類を見せてくれたことがきっかけでした。その書類は、どうやら祖父が小学生のときに、米国から日本に入港したときの記録のようでした。

なぜ、祖父がそのような背景の持ち主だったのか興味を持った私は、翌年、修士1年の夏休み40日間を利用して、「祖父の生まれた家を探そう」という旅を企画し、デイバック1つを持って、単身渡米しました。

そして、祖父の生まれた場所に到達するまでに、多くの日系アメリカ人、米国人、華僑の方に助けられながら、私は1世紀以上も前に、米国で一生懸命に生き抜いた日本人に関する様々な情報を得ることができました。特に米国ロス市の「全米日系人博物館(JAPANESE AMERICAN NATIONAL MUSEUM )」の方々には、多くの情報をご提供頂きました。

このページは、私と同様に、日系アメリカ人の先祖を持つ人が、米国で情報を得たいと思うときに、役立つ情報を残せればという思いで書いていますが、また一方で、日本の教科書では出てこない歴史の一部を残せれば幸いに思っています。


1.Little Tokyo

1998 年の夏、私は祖父の生まれた家を探すために、まず最初に米国ロス市に訪れました。そこは、祖父が見せてくれた書類の中に、「ロス市からやってきた」ということが書かれていたためです。その街をスタートとして、米国のどこかにある、祖父の生家を探すということが、その旅の目的でした。運が良ければ、その場所に住んでいる方に話を伝えて、コーヒーを頂けないかなと思っていました。

ロス市に到着して、まず、その日に泊まれる安いホテルを探しました。40 日間を想定していた旅で、所持していたお金は、$3000程度でしたので、できるだけ節約をしたいと思いました。また、祖父の家がどこにあったかも分からず、米国のどこへ移動するかも、分からない旅でしたので、基本的には2,3日に一回、自分で宿を取りながら移動する作戦を取っていました。今思えば、日本でホテルを予約して行かなかったことが、その旅を大成功させることにつながりました。

旅行ガイドブックの中で、ロス市内の安ホテルとして、「Little Tokyo」と呼ばれる地域のものが紹介されていましたので、私はそこに行くことにしましたが、偶然にも、そこは多くの日系アメリカ人が住む場所でした。後から気が付いたことですが、そこは、まさに祖父の情報を収集するための最適の地でした。

空港からバスを乗り継いで、Little Tokyo のホテルに着くと、さっそく祖父の生家を探すために行動を開始しました。手掛かりは、1919 年 1月7日という日付だけでした。この日付は、当初、祖父が米国から日本に戻った日付だと思い込んでいたのですが、すぐに祖父の誕生日だと気が付きました。そこで、誕生日をもとに、探せる場所、市役所を探そうとしました。そこで、できて間もないLittle Tokyo の KOBAN に足を運んで、事情を説明し、市役所に行きたいという旨を伝えました。

すると、KOBAN では、「市役所ではなく、出生記録所のようなところがいい」という情報を得ることができました。また、Little Tokyo に、全米日系人博物館があるということでした。祖父の時代にアメリカにいたならば、そこには、おそらく何かのヒントがあるだろうということでした。出生記録所は、「遠くにある」と聞いて、とりあえず、全米日系人博物館に行くことにしました。


2.Little Tokyo

  全米日系人博物館へ


全米日系人博物館は、日系アメリカ人の体験を伝える唯一の博物館です。そこには、様々な資料が残されています。私は、祖父の事を、そこの博物館の人に聞いてみましたが、当然のことながら、そのときは、あまり良い情報は得られませんでした。しかし、博物館の中を歩くうちに、ハワイなどで強制労働を強いられていた日本人の生活を知り、それまで知ることもなかった日本の歴史を垣間見ることができました。

その日は、結局、博物館見学を簡単にして、翌日、出生記録所を尋ねることにしました。


3.ロス市の出生記録所へ


翌日、ホテルで、ロス市内にある出生記録所の住所を調べたところ、滞在したホテルから、本当に遠くにあることが分かりました。タクシーで行く距離ではないくらい、遠いことが分かりました。バスでも半日かかるとのことでした。初めての米国旅行で、しかも独り旅でしたので、バスで半日掛けて戻ってこれない場合は、とてもまずいと判断した私は、どうしたものかと、悩んでおりましたが、偶然にも、素晴らしい出会いがありました。

それは、ホテルの女性オーナー(日系アメリカ人の方)の御親友(華僑の中年女性)が、前夜から、そのホテルに滞在しており、たまたま早朝、ロビーでその華僑の女性に出会ったことです。何気ない雑談の中で、その彼女は、離婚された夫の行方を追跡するために、ロス市を訪れたことを話しました。そして、その女性が今からバスに乗っていこうとしている行き先を聞いて、私はびっくりしました。何と、私の行きたいと思っていた出生記録所そのものだったのです。

実は、ロス市にある出生記録所は、正確には「出生・結婚・離婚・死亡」について記録されている場所で、いわば「人生の記録所」だということでした。彼女は、離婚した夫の現在の住所を調べることができるかもしれないという思いで、そこを尋ねるのだということでした。私が彼女に行き先を告げると、彼女もびっくりしていました。

こうして、ひょんなことから、華僑の中年女性と私は2人で、早朝からバスを3回乗り継いで、片道3.5時間の道のりを辿り、ようやくその出生記録所にたどり着きました。広大な草原の中にポツンと、その建物は建っていました。着いたときは、お昼をとっくに過ぎたので、まずは2人で数ブロック離れた Carl's Jr. に入って、ハンバーガーをほうばりました。

そして、いよいよ出生記録所に入りました。彼女は離婚記録所に行きました。私は整理券を取って、列に並び、ようやく出生記録所の窓口の順番が来たところで、祖父の記録を見せました。

Sonoda: 「1919 年 1 月 7 日生まれの祖父の出生記録が見たいのです。」

窓口の人: 「この記入用紙に書いて、お渡しください。係の者が検索して、3ヶ月以内に指定された住所に結果を郵送します。」

Sonoda: 「それでは間に合いません。私は祖父の生家に1ヶ月以内にたどり着かなければならないんです。今回、独りではるばる日本からやってきたのは、そのためなんです。」 (3 回同じ内容を英語で言う)

窓口の人: 「・・・仕方ない人ですね。では、地下に行ってください。そこに昔からの記録があります。その書庫を管理している人に同じことを言ってください。あなたが運が強い人だったら、優先してくれるかもしれませんよ。」

そんな訳で地下室に行き、書庫で忙しく動いている女性をつかまえました。

Sonoda: 「1919 年 1 月 7 日生まれの祖父の出生記録が見たいのです。」

地下の女性: 「順番がありますので、上で記入用紙を書いて・・・」

Sonoda: 「Please! 私は祖父の生家に1ヶ月以内にたどり着かなければならないんです。今回、独りではるばる日本からやってきたのは、そのためなんです。」 (3 回同じ内容を英語で言う)

地下の女性: 「ちょっと待っていなさい」

2分後、彼女は古いボロボロのファイルを持ってきました。そして、何と、その中に1枚、見慣れた名前がありました。まさに祖父が生まれたときに提出された紙でした。茶色に変色し、汚くなってはいますが、確かに祖父と曾祖父の名前は、くっきりと読めました。私は興奮して、コピーしたいと言いましたが、きっぱり断られました。ただし、特別に、メモはしても良いとのことでしたので、メモを取りました。

その記録には、次のような情報がありました。

1919年の米国の出生記録:

「日本人の産婆さんによって、生を受けた。
 生まれたときに、銀の混じった目薬をした。(消毒のため?)
 祖父が生まれたとき、曾祖父はクリーニング屋( Laundry)を営んでいた。
 曾祖父の名前は園田***、曾祖母の名前は、園田**。
 産まれた場所は、カリフォルニア州ロスアンゼルス市 ジャクソン通り XXX」

こうして、私はついに、祖父の生家の住所を正確に入手できました!
しかも、ロス市で生まれていたなんて!

このとき、80 年も前の外国人の出生記録が、まだ、紙媒体で残っていることに対して、米国のすごさを感じました。日本でも、同じような調査が可能だと嬉しいのですが。

華僑の女性は、残念ながら、 夫の行方までは突き止められなかったようですが、私の報告を心から喜んでくださって、また、2人でバスに乗り継いで、夜が迫った Little Tokyo に戻ることができました。


4.ロス市警へ

Little Tokyo に戻ってすぐに、夜、私は、ロス市警に行きました。

”カリフォルニア州ロスアンゼルス市 ジャクソンストリート XXX ”

という場所を正確に教えてもらうためには、やはり警察に行かなければならないだろうと思いました。当時は、米国に Mapion のようなサービスはなかったと思います。警察署に入っての第一印象は、本当に映画のように、とてもパリッとした、格好いいエリート警察官ばかりいるんだなあということです。

Sonoda: 「この住所への行き方を教えてください。私は・・・という理由で日本からはるばる来ました。」

警察官1: 「ジャクソンストリート?知らないな。誰か知っている人はいないか?」

警察官2,3・・・N: 「ジャクソンストリート?さあ・・・」

警察官1: 「ちょっと、専門部署に調べてもらうからね。」

(5分後)

警察官1: 「ジャクソンストリートは、よほど小さい通りらしいね。検索しても出てこないそうだ。」

Sonoda: 「でも、80 年前はあったはずです。通りの名前が変わっているんではないですか?その記録があると嬉しいのですが。」

警察官1: 「誰か、通りの名前を変える権限を持っている人を知らないか?」

警察官2: 「市長です。では、市長のところに聞いてみましょう。」

(警察官2の方、電話してくれる)

警察官2: 「駄目みたいです。分からないそうです。」

警察官1: 「残念だけど、ここでは分からないから、明日にでも中央図書館に行って、昔の記録を調べたらどうかな?」

という成り行きで、警察から、今度は図書館に行くことになりました。ここまでくると、ロール・プレイング・ゲーム(RPG)よりも、楽しくて仕方がありませんでした。


5.ロスアンゼルス市中央図書館へ

翌日、警察官に言われたとおり、図書館に行くことにしました。まずは、Little Tokyo にある図書館に行きましたが、そこには 80 年以上も前の電話帳や地図はありませんでした。

そこで、仕方なく治安が悪いと聞いていたブロックにある、ロスアンゼルス中央図書館に行くことにしました。行ってびっくりしたのは、とてもスケールが大きいということです。私が探していた電話帳や地図の記録は、地下4階にあるとのことで、地下4階までもぐって行きました。

地下4階でまず調べてみたのは、電話帳でした。面白いことに80年ほど前から今日に至るまでの電話帳が残っていました。そこで、調べて分かったことは、1919年当時、日本人には電話があたえられていなかったということです。電話帳に出てくる名前も、とても少ないので人口そのものが少なかったのだと思いますが、日本人らしい名前はまだありませんでした。

次に調べたのは、地図でした。地図はマイクロフィッシュというメディアに記録されていました。1919 年に書かれた地図という分類で調べたところ、非常に膨大な量の地図が出てきました。私は一生懸命調べようとしましたが、そもそも、とても小さいかもしれない通りの名前を地図を眺めて探すのは、途方もない作業です。しかも、外国人の素人が、何の手掛かりもなく、地図を検索するのは無謀だと思いました。

そこで、図書館の人にお願いすることにしました。

Sonoda: 「このジャクソンストリートを 1919 年の地図で探しています。探し方が分からないので、教えてください」

図書館の人: 「君は日本人だね。野球はどこのファンだい?」

Sonoda: 「あんまり見ないけど、ダイエーとか。 (地元 福岡の球団)。 」

図書館の人: 「俺はバッファローズなんだ。俺の相棒はライオンズさ!俺たちは日本の野球が好きなんだ。そんな訳で、俺が特別に見つけてやるよ。」

という成り行きで、ついにジャクソンストリートが掲載されているページを探してもらうことに成功しました。
ジャクソンストリートは、多くの民家が立ち並ぶ通りでした。私は、ある程度大きな通りまで掲載されている縮小図と、拡大図の2つをコピーして、日本びいきの図書館の人に、御礼を言って、その場を去りました。


6.現代の地図と80年前の地図

80年前の地図を手に入れた私は、すぐに現代の地図を購入しに本屋に行きました。80年前の地図で、ある程度大きな通りは、きっと現代の地図にも名前がそのままで残っているだろうと思ったからです。

予想は的中しました。80年前の地図の大通りは、現代も同じ名前で残っていました。この結果、ほぼ正確にジャクソンストリートの現代の位置が特定できました。大きな道からは2本入った、本当に裏道のような場所でした。そこは、何と、私の滞在しているホテルから北西に徒歩10分ほどのところだということが分かりました。偶然にも、私は祖父の生家の近くに滞在していたのです。

またもや興奮につつまれる私でしたが、また、困った問題が発生しました。それは、現代の地図では、祖父の生家にあたる場所が、何やら空き地のように記載され、正確な場所が良く分からないということでした。

これでは、おおよその場所に辿りつけても、正確に祖父の生家に到達できません。そこで、私は再び、Little Tokyo の KOBAN に行くことにしました。 きっと交番には正確な地図があるに違いないと思ったからです。


7.再び Little Tokyo の KOBAN へ

80年前の地図と、現代の地図を持って KOBAN に行って、ジャクソンストリートのことを窓口で説明しました。窓口の方は、とても困っていたみたいですが、またもや偶然にも、たまたま受付の後ろの方に座っていたおまわりさんが、

おまわりさん: 「ジャクソンストリートって、パトロールで行ったことがあるよ。小さいけど、まだ、あるよ。」

と言って、詳しい地図を持ってきました。すると、本当に Jackson St. という記述がありました。私は、その地図と 80 年前の地図の地形を比べて、確かに一致することを確かめました。

しかし、喜びも束の間、現代のジャクソンストリートは、従来の半分の長さになっており、祖父の生家のあった場所は、やはり空き地のような記載になっていました。私がこの場所は?と聞くと、

おまわりさん: 「これ、おそらく水道局のような施設だよ。でも、この時間は危ないよ。」

当時、夕方の Little Tokyo の北西部は、人が立ち寄らない場所でした。ホテルに滞在していた人には、ギャングが出る場所だと聞いていました。

私は、翌日、その場所に行くことにしました。

 


8.ついに、祖父の生家の場所へ

翌朝、私は、いよいよ旅の最終目的地にたどりつく気持ちで心躍りながら、ジャクソンストリートに向かいました。空き地が続き、倉庫が立ち並ぶ中、Jackson St. の sign は立っていました。

そして、その通りが切れたところにあったもの。それは、"Department for Power and Water" という施設でした。水道局と発電所のようなものだと思います。周りは3メートルの壁と有刺鉄線が張り巡らされていました。

私は、祖父の生まれた家の位置を正確に探しました。すると、壁で囲まれたちょうど内側10メートルくらい入ったところでした。これでは、壁が邪魔で、今、どうなっているのか分かりません。

私は、事情を説明して、その施設の守衛さんに、中に入れてもらおうと思ったのですが、きっと断られると思い、せめて、写真を取れる方法はないものかと、建物の周りを歩きながら考えました。

すると、祖父の生家のあった場所のすぐ近くに、立派な木が生えているのに気が付きました。私は遠慮なく、木に登り、蜘蛛の巣を振り払いながら、壁の上から、建物の内部を見渡せる位置まで、枝を上りました。

そして、ついに祖父の生家の跡地を、肉眼で確認することができました。そこは、木材や鉄骨が詰まれた資材置き場になっていました。

私は目的達成に嬉しくなって、 しばらく木の上で、何枚も何枚も写真を撮影しました。おそらく、見つかったら大変なことになっていたとは思いますが、朝早かったためか、誰にも見つかることなく、記念撮影を終えました。

こうして、私は祖父の誕生日だけを手掛かりに、80年前の祖父の生家にたどり着くことができました。
しかし、私は、この後にもっと大きな成果を手に入れることになります。
それは、 全米日系人博物館にこのことを報告に行ったときのことです・・・


エピローグ

再びLittle Tokyo全米日系人博物館へ

私は、数日前に、お世話になった御礼と祖父の生家にたどり着けた報告をするために、再び全米日系人博物館に行きました。博物館の方々は、とても喜んでくださいました。また、このことを日本に帰って文章に残すべきだとおっしゃいました。(あれから、数年経って、ようやく文章を書いているわけですが・・・)

そして、館長さんから、「出生記録所で得た、おじいさんの誕生の記録から、もしかしたら、ひいおじいさんの記録が見つかるかもしれないね」と、1900年前後に、日本から米国に渡った日本人の過去の記録を検索してくださいました。

すると・・・ありました。曾祖父が米国に入ったときの記録が、博物館にあったのです。

そこには次の情報が記載されていました。

項目 情報
入国日 1915年10月26日
氏名 園田 ***
性別
既婚 YES
人種 日本人
国籍 日本
誕生の地 熊本県 ***
最後にいた場所 山口県 ***
過去に米国に入国した経験 あり(1898-1915)
顔の色 日焼け
目の色 ダークブラウン
髪の色
身長 1/58 (メートル単位?)
入国時に乗っていた船 日本丸
特徴 親指に残された傷跡

この記録のほか、曾祖父は幕末の開国後、第3回目の米国行きの船に乗って、米国に渡ったということも分かっています。外国との貿易が始まったばかりの日本には情報が乏しく、アメリカンドリームを信じて渡米しても、ハワイのさとうきびプランテーション農園で、日給1ドルの低賃金で働き続けたひどい時代もあったようです。

また、この記録から、2度目以降の渡米だということが分かりますが、祖父から聞いた話によると、最初に1898年に米国に渡った後、日本に一度帰国し、曾祖母を嫁にもらってから、再渡米した模様です。この当時、渡米した日本人たちは Picture Bride という制度で、日本から送られてくる写真だけを見て結婚したケースがほとんどだったので、珍しいケースだそうです。

このほかにも、様々な日系人の歴史を全米日系人博物館の方や、現地の日系人の方に教えて頂きました。私はこのような歴史の事実と、米国に渡って強く生き抜いた日本人のことを、日本にいながら、まったく存じませんでした。

私が訪れたとき、季節は夏で、Little Tokyo では盆踊りが催されていました。また、とても印象的な言葉は、

「日本にいる日本人よりも、日本らしく」

というキャッチフレーズでした。Little Tokyo には、日本の番組は、毎週、日本から届けられていました。人々は髪の色は黒であることに誇りをもって、染めないとのことでした。

祖父は、第二次世界大戦の直前に運良く日本に戻されたそうですが、祖父の生家を含む多くの日本人の土地は、米国政府に没収され、ほとんどの日本人は、戦争の間、強制収容キャンプに入れられたとのことです。


最後に、私は、この旅を通して、自分の先祖のことだけでなく、米国と日本の歴史を改めて見直す、良い機会を得ることができました。全米日系人博物館の方々をはじめ、旅の最中、お世話になった方々には、この場をお借りして、厚く御礼を申し上げます。再び、Little Tokyo に訪れる際には、より日本と日系アメリカ人の交流を深められるものを持って、参上したいと思います。

 

Tom SONODA ©sonoda.net since 1998.